株式会社イーウェル アドバイザー
山梨大学 教育人間科学部教授 西久保浩二

さてさて、最近の報道をみるまでもなく、政権交代というのはなんとも騒々しいものか。
これほど様々な場面で混乱するものなのか、という感想が小生だけでなく多くのビジネスマン諸兄も実感、共感されるところではなかろうか。確かに今回の歴史的な政権交代は多くの国民が支持した結果であり、大きな期待に裏付けられた選択であった。その期待が具体的な形になろうとしているのではあるのだが...

「宴会では、宗教と政治の話はするな」というのが若かりし頃、小生も諸先輩たちから教えられたビジネスの常識であるが、今回はあえて生来の野次馬根性をご容赦いただいて、この興味深い、今最もホットなこの騒動について少しコメントしてみたいと思う。
といってもあまりに広範囲で炎上しつつある騒動であるので、ひとつの明確な視角を持って臨みたいと思う。残念だが天下国家を論じるほどの見識・力量は持ち併せておらないこともあり、マニアックな趣味というか、カッコよく言わせていただくと、専門性を生かしたいと思う。要するに、われらの「福利厚生」の世界がどのような迷惑(いやいや失言...)、影響を受けるのかという角度から考えてみたい。

新政権の方向性と企業行動への影響

まず、新たな政権党が掲げたマニフェストだが、これが全体として志向した基本的な方向性なり、理念とはどのようなものかということを考えてみたい。おそらく、その方向性が今後最低でも四年間継続され、諸政策の性格を決定づけてゆくと予測されるからである。
この点はマニフェストの冒頭の言葉に象徴されるだろうと思う。
そこに彼らは「暮らしのための政治を」というスローガンを掲げて、それに多くを託そうとしている。暮らしとは生活、つまり生活者への貢献を強調しているわけである。生活者についても一般的なもの、全体平均的なものとしてではなく、いわゆる「弱者」を念頭に置いたものといえるだろう。この「弱者」とは誰かという定義はなかなか難しいところなのだが、ともかく「今困っている人々」に救済の手をさしのべようとする態度は明確だ。強行採決された注目の金融モラトリアム法案などに代表されるとおりである。

同時に注目したい点は、前政権が歴代、経済成長という果実を基本的な手段として媒介させ、その波及効果をもって生活の豊かさや中小企業の存続を図ろうとしたことと対照的に、新政権の政府は自らが財源を用意して、直接的に救済、支援のための様々な給付、補助等を実現しようとしていることである。つまり、間接と直接、経済先行と生活先行という対比がかなり明らかである。
この「直接性」に今回の新政権の政策としての明確な性格があると考えられる。

そして、直接給付を指向する政策が多いがために「事業仕分け」といった形でのムダ(既存予算の削減・圧縮)や埋蔵金召し上げのために、「大岡裁き」やら「桜吹雪の金さん」ばりの派手な財源捻出の手段を取らざるを得ないのであろう。確かにあれは見ていて面白い映像であった。たぶん勧善懲悪が単純に描き出されていたからであろう。
お代官様にバサッと断罪される悪徳商人(官僚?)の姿に、大向こうの国民は拍手喝采を送っているのだろう。

まず、政府つまり「公」が「直接性」を強く指向することが、福利厚生つまり「企業」の行動との間に新しい関係を生じさせると予測される。換言すれば、いわゆる「公助」「共助」「自助」、あるいは「公的保障」「企業保障」「私的保障」の三者間の相互関係において変化が起こるものと推測される。
例えば「子ども手当」である。中学生まで年間31万2000円というかなり大きな直接給付がなされようとしている。
加えて出産時の55万円支給、高校授業料の無償化(公立)、待機児童解消などの一連の手厚い出産・育児・教育関連の支援が今後、「公」から長期間なされることになる公算が大きい。
とすれば、企業が福利厚生を通じて、これまで労使協議を経て制度化し、給付を行ってきた同様の出産・育児・教育関連の対応を、ある程度抑制しようとする行動が予測される。
屋上屋を重ねる愚を賢明な企業、余裕のない企業は回避しようとすると考えられるからである。

福利厚生における官民の分担関係

福利厚生には、歴史的に「公」と密接な役割分担、相互補完の関係を形成することで、社会的装置としての存在意義を示してきた側面がある。すなわち、様々な新しい福利厚生制度を実験的に行うのが先進的な企業、経営者であり、その後、その社会的必然性や効果を見極めながら「公」が社会保険・労働保険制度、労働者保護立法、その他官製の制度・施策として全ての勤労者、生活者に提供する。そうして、「公」が制度化した領域、給付対象、給付水準に対しては、各企業は、今度は差別化あるいは上乗せ化という方向での進化を模索する。目的としては、それぞれの企業の個性というか、自企業の魅力を労働市場や従業員に向かって主張しようとして、自らの福利厚生の進化を図ることになるわけである。このような分担関係は米国の医療保険制度での官民の状況などでも典型的に現れているものである。
こうした歴史的な経緯からすると、わが国の新政権の動きは官側の直接行動の拡大と、おそらく民側(企業側)の役割縮小、あるいは差別化・上乗せ化という方向に誘うこととなり、変質する可能性が高いのではないかと予測される。

官による直接給付が良いか、企業等を介した間接給付が良いかという点はいろいろと議論の余地があろう。福利厚生不要論者が語れば、「企業介在型の福利厚生には企業規模間での格差が表出してしまうため、政府による対応がベターだ」となるだろう。しかし、小生に言わせると、官からの平等な給付には「投資と効果」あるいは「競争意識」「自助努力意識」といった自発的な活力を誘引する力が弱く、タレ流しとまでは申し上げないが随分ともったいない話に陥りやすい危険性を孕んでいるわけである。 その点、企業の福利厚生を充実させるという点での「高福祉」は、その投資効果如何では、決して高くつくものとはならず、企業の成長・発展に寄与することができれば労使双方にとって、十分にペイするものになり得る。ここに、企業による福利厚生と政策的福祉との絶対的な差異が見いだせるのである。

企業が福利厚生に力を入れようとする目的は、優秀な人材の獲得と定着、ひいては競争優位という投資効果を狙うことにあり、そのために色々とやり繰り、創意工夫して制度編成、制度運営に努力を積み重ねてきたのである。だからこそ、そこで使われた費用が単なる費用ではなく“生き金”となって優秀な人的資源が形成され、国際的な競争力の形成にまで結びついてきた訳である。もちろん、弊害として企業間格差は生じることになるのだが、だからこそ、そこだけに官が出動して格差緩和措置だけに注力すればよいのである。福利厚生の世界ではこの分担関係として、中小企業勤労者サービスセンター事業などがそれに該当する。また一方で、健康保険組合などでの保険者機能の発揮が、企業という活力や独自性を利用して投資効率を上げている典型的なケースといえるだろう。

問題は「大きな政府」をどこまで続けるか

さてさて、官の直接給付か、民を介在させる間接給付(福利厚生)か、どちらが今の時代に求められているものなのか。いずれ、この答えは否応なく出てくることになるだろう。
また、賢明なる読者は既に気づいておられるかと思うが、このような直接給付を担いたがる「大きな政府」というものは、必然的にその規模に見合う国民負担、特に事業主側の関与、つまり何らかの負担増を求めてくることも併せて予測されることである。

先の「子ども手当」についても、財務省あたりでは事業主や地方自治体のコミットメント(費用分担)を臭わせ始めてきているではないか。結果的には、予期しなかった形で法定福利費の上昇ということもありうるのではなかろうかと懸念される。この点も、あのマニフェストを支持した段階で既に予測されたことであり、われわれが選択した結果である。
社会政策には基本的なベクトルとしては「低福祉-低負担」か「高福祉-高負担」しかないわけであって、今回はかなり明確に後者の方向性を選んだということになる。だから高福祉を選んでおいて「消費税、絶対反対っ!」なんて本当は言っては駄目なのだ。

しかし仮に、政府の直接給付の拡大によって事業主に法定福利費のような強制力を持った負担増が迫られてくるとするならば、法定外福利費が担っている制度については、先に述べた差別化や上乗せ化といった形での官民分担ではなく、「大きな政府」に対する「小さな企業」という分担にならざるを得ないのではないかとも思えてくる。
福利厚生の先行きはなかなか難しいところであり、従業員に対する福利厚生の投資効果をどのように維持すればよいのか、悩ましいところではある。

今回の新政府の「直接給付」による、幅広い高福祉型というか、弱者救済型というか、そうした対応を批判するつもりはない。ずっと、企業成長、国際競争力ばかりを目指してきたわが国が現在の国民の窮状にきちんと目を向けて、政府自らが対応する時期が一定期間ならばあってもよいと思うからである。問題は、どこまで、そしていつまで、それを続けるかであり、回復させた国民力によって、どのような次の成長戦略を描けるかである。この点は、当面の間は期待して見守るしかないだろう。

「高福祉-高負担」の請求書

それにしても改めてよく見てみると、福利厚生と関連のない分野も含めて、まぁ、あれも、これも、これでもかと「高福祉」を盛り込んだマニフェストだと驚くばかりである。高速無料化しかり、農家の戸別所得補償しかり、中小企業減税しかりである。格差社会がいわれた頃から始まり、未曾有の金融危機で急拡大した「弱者」や「負け組」の方たちの心を鷲づかみするには十分な質と量である。いや、見事なものだ。
しかし、ものすごい大盤振る舞いだけに後から回ってくる請求書がどんなものになるのか、なんともいえない薄ら寒い不安をぬぐえないのが正直なところではある。それが誰にもツケ回しのできない請求書であることだけは間違いない。