株式会社イーウェル アドバイザー
山梨大学 教育人間科学部教授 西久保浩二

2010年という新しい年を迎えて、読者諸兄には気持ちも新たに、この厳しい局面に臨まれようとしているのではなかろうか。これからの1年が、皆様にとって様々な課題を克服されて実り豊かなものとなることをお祈りしたい。
さて、今回は新年第一回ということもあり、少し長期的な視点からわが国の福利厚生の新しい方向性について考えてみたい。というのも大きな方向性の変化の予兆ともいえる出来事が昨年末に現れてきたからである。 新しい潮流が始まる契機ともいえる変化であり、着目してみたいと思う。

確定拠出型年金制度の一部改正

それは昨年末になって新聞報道によって伝えられたもので読者の皆様にもまだ記憶に新しいと思われる。すなわち、確定拠出型年金(企業型)への従業員個人からのマッチング拠出がいよいよ認められるというものである。
この改革案は以前より経済団体等からの強い要望もあって法案化されたものの昨年の通常国会では、政権交代のドタバタもあって審議未了のまま廃案となっていたものだが、報道によれば新政権においても、ほぼ同様の内容で次回の通常国会で成立される見通しが示された。

改めてその改正内容を簡単に再確認すると、確定拠出型年金において月額限度額を5000円引き上げ、他の企業年金がない企業型の場合では最大月額5.1万円(現行4.6万円)とし、その限度額の範囲内で、企業の拠出額を超えない額であれば従業員個人による給与課税前(所得控除)でのマッチング拠出を認めるという点が最大の注目点となる。加えて、拠出年齢限度を現行の60歳から65歳まで引き上げることも盛り込まれている。

月額5.1万円ということは、年額で61.2万円となり、仮に企業が限度額の半額の30.6万円を拠出するものとすると、従業員にも同額の非課税拠出枠が提供されることとなる。最新の日本経団連調査では退職年金費用(掛け金に加えて給付債務処理費用を含む)は従業員1人当たり月額で35,579円となっている。この企業側の支出実態からすると、従業員に年額30.6万(月額25,500円)という満額に近い拠出枠が提供されるケースも少なくないと考えられる。
従業員の老後の生活設計にとって、この課税前拠出という恩典は資産形成においては、決定的に大きな、そして安定的な効果を持つことになる。簡単な試算を行ってみた。年額30.6万の従業員拠出ができる、ということを前提に、所得水準別での節税効果について、所得税の速算表を元に簡単に試算したものが下表である。

課税所得 所得税率 通常税額 拠出後税額 節税額 対拠出額
500万円 20% 572,500 511,300 61,200 20.0%
700万円 23% 974,000 903,620 70,380 23.0%
1000万円 23% 1,764,000 1,663,020 100,980 33.0%

たとえば、課税所得が500万円の従業員世帯では、拠出による所得控除によって年間の節税額が61,200円となる。同様に700万円世帯では、70,380円、1000万円世帯では100,980円となる。所得額に対しては大したものではないようにも見えるが、この節税額を自らが拠出した年額30.6万に対する運用効果(金利)としてみると、500万円の従業員世帯で年利20%、1000万円世帯では年利でなんと33%となる。30万の拠出で10万円の節税う話である。定期預金金利が1%前後という現在の低金利市場の状況のなかでは、圧倒的に有利な金融商品ということになる。特に、高い所得税率が適用される高額所得層ほど有利な拠出となることがおわかりいただけるだろう。もちろん、確定拠出型年金であるから、元本割れの危険もあるハイリスク商品での運用を行えば、拠出時の恩恵を帳消しにすることもあるだろうが、拠出した時点で確実にこれだけのパフォーマンス(投資効果)を手にできるという魅力は大きい。

法改正による様々な影響

では、この法改正が現実化したことによって、今後の従業員の生活設計や企業の福利厚生において何が起こるのであろうか。

まず、一次的な効果としては企業型の確定拠出型年金導入の動きが加速されることは間違いないだろう。そもそも今回の改正の主たる目的がここにあるから当然だ。昨年末の厚生労働省発表では企業型確定拠出年金の実施事業主数は12,200社で、加入者が334万人であった。平均加入者数が約270人であるから、比較的規模の大きい企業が早期に導入したことがわかる。この数値が今後、大きく伸びることになるだろう。特に、平成24年3月末で廃止される適格年金が未だ2.5万件以上放置されたままとなっており、ここからの大量移行がまずは予測される。

また、企業規模50人以上の民間企業では、未だ退職一時金のみの企業が41.5%存在するという調査結果(平成18年民間企業退職給付調査 平成18年11月 人事院資料)があるが、こうした企業年金の未導入企業においても、従業員の非課税での有利な資産形成機会を提供しなければならないという義務感、あるいは従業員側からの強い要請によって、新たに当該制度の導入もしくは移行を検討することを迫られるものと予測される。したがって、併用企業も含めて、中小企業層などを中心に伝統的な一時金制度や自社年金等から確定拠出年金への移行が進むことになるだろう。
二次的な波及効果としては色々なことが想定されるが、まず、目的や機能が近似する他の制度への波及効果が出ることは間違いない。ポータビリティに劣る財形制度、特に財形年金制度などはかなり直接的な影響を被るであろうし、保険会社などが提供してきた自助型(従業員拠出)の財産形成制度、年金制度等は競争条件が大きく変わることになり、悪影響を受ける可能性が高まろう。集団扱いの個人年金などもその範囲に否応なく含まれるだろう。となれば、カフェテリアプランに個人年金補助といったメニューを導入している企業では、今回の新たな従業員拠出への対応をどうするか、といった点も含めて従業員の老後の資産形成支援のあり方全体を再検討することが求められることになる。

現在のような景気後退期で企業業績が芳しくない現状では、企業の総額人件費の抑制意向が強く働いているため、法定外福利費に対する影響も当然あると考えるべきだろう。先の企業年金の未導入企業が従業員の拠出枠の確保を最優先と考えれば、予算の組み替えが行われる可能性も出てくる。既導入企業であっても、限度額半額まで企業拠出を増額することが求められるようなケースでは、その原資として法定外福利費の一部が当てられることにもなろう。

節税インセンティブの本来の目的を考える

このような退職給付とその他の福利厚生との綱引きは必ずしも望ましいことではないと筆者は考えている。今回のような節税という強い誘導効果によって、特定の退職給付制度だけに資金が集中することで、従業員の選択によるベネフィットの最適化を妨げることにもなり兼ねないからである。

米国にはカフェテリアプランを前提としたFSA(Flexible Spending Account) という、退職給付だけに限定されない広範囲の従業員拠出型の節税方法がある。これは、医療費(Medical expense FSA)や扶養者ケア費用(Dependent care FSA)、通勤交通費(Commuter Flexible Spending Account)などが対象となるもので、使用予定の費用をその前年に届け出ておくことで、課税前の所得からその費用を差し引いた額が課税対象となる。扶養者ケア費用は現在5000ドルが限度額で13歳未満の子供か同居家族の場合などでは、子供のサマーキャンプ費用などもその対象となり、両親が共働きのケースでの子育て支援として活用されたりしている。あるいは、婚外子比率が高い米国では従業員の養子縁組補助にまで、このFSAが用いられている。

本来ならば、多様な背景を持ち始めた従業員の幅広い生活ニーズに対して、節税効果というインセンティブを使って従業員の自立的な生活設計を支援できる枠組みとすべきなのである。いかに、わが国で公的年金への不安や不満が高まり、それが政権選択にも影響を及ぼすような強い社会的ムーブメントとなっているからといって、補完的機能を期待できる退職給付だけに、大きな吸引力を持たせることは企業内福利の最適化という点では望ましくない。多様な従業員ニーズ、そして企業側のニーズにも応えて、きめ細かく、かつ機動的な分配がなされることで、制度全体でのコスト・パフォーマンスを高めることができるからである。特定の退職給付制度だけに資金が歪な形で集中することは望ましくない。

新しい時代の幕開け ~「場としての福利厚生」~

ま、無いものねだりばかりをしていてもしょうがいないのだが、政策当局にどの程度の明確な長期的な将来ビジョンがあっての今回の一歩なのかが大いに気になるところではある。株価対策などを意識した単なるバラ撒きでないことを祈りたいところである。
いずれにしても、今回のように特定の福利制度への従業員の課税前拠出という恩典を認めるという方向性が明確に示されたということは、その事自体の是非だけではなく、おそらく、わが国の退職給付を含めた広義の福利厚生制度の新しい時代の幕開けを象徴する動きではないかと筆者には思えてならない。
このことが何を意味するものなのか。筆者には、いよいよ従来からの企業主導の企業内福利の世界から、従業員主導という新しい軸が加えられ、両者が融合する世界へと明確に加わり始めたのであり、その第一歩が今回の変革として、後生、位置づけられるのではないかと思える。

わが国の福利厚生は、古くは「女工哀史」で語られような、あるいは近年では、世界を驚嘆させた高度成長をもたらした「日本的経営」の中で企業戦士を支えるものとして賞賛されたように、企業という存在が強いプレゼンスと主体性を発揮してきた。こうした企業主導型は費用対効果こそ曖昧であったが、企業による労務管理色の強いシンプルな構造の企業内福利を形作ってきた。
そうした伝統的な姿から、従業員自らが戦略的な生活設計を計画し、実行する時空間としての役割、すなわち「場としての福利厚生」としてのプレゼンスが本格化に高まり始め、両者が並列した複合的なシステムとしての新たな形が明確になっていくのではないかと考えられる。

藤田至考著「職域福利」(2003)によれば、米国での先のFSAおよび401kに対する従業員の年平均拠出額は2000年時点において7,740ドルで、賃金総額の17%に達しており、企業拠出の11,561ドルに比肩する水準にまでになっている。こうした先行する米国での動きに追いかけるように、従業員個人が将来に向けて、より主体的に自らの生活設計を計画し、実現する機会が企業内福利という世界の中に新たに開かれようとしている。
このような従業員の自助努力、相互扶助の場に対して、企業がどのような支援と対応をすべきか。また、そうした自助システムが拡大しようとするときに、従前からの労務管理的システムはどうあるべきか。新しい企業内福利の世界を見据えて明確なビジョンを創るべき時期にきているように思われる。