イーウェル総合研究所 企業戦略研究会 座長
山梨大学 生命環境学部 地域社会システム学科 教授 西久保浩二

※「健康経営」は特定非営利活動法人健康経営研究会の登録商標です

1.健康経営への関心の高まり

 近年になってわが国において「健康経営」に対して多方面からの関心が集まりつつある。
 だが、企業における従業員の健康の重要性を経営的視点から最初に体系的にアプローチを行ったのは1992年である。米国のロバート・H. ローゼン(Robert H. Rosen)とLisa Bergerが上市した「The Healthy Company – Eight Strategies to Develop People, Productivity, and Profits」がその先駆けであった。この彼らの主張からは既に20年以上が経過しており、米国との問題意識についての時間差を感じざるを得ない。

 日米での健康への注目に関する時間差、温度差の要因の背景には、両国の医療保険制度の違いがあることは間違いないだろう。高齢者、障害者以外は基本的に任意の医療保険の利用を前提とされる米国では、企業が従業員の支払う医療費に連動して保険料を負担することになる、いわゆる「出来高払い保険」の団体医療保険の導入が一般的である。米国もわが国と同様に、高齢化が進行する過程で社会的に医療費の膨張が長年続いてきたことで、結果的に企業の保険料負担が看過できないものとなってきた。企業単位での保険契約となるため、自社の従業員の医療費負担が各企業の保険料負担に直結する構造にあり、企業間での人件費コストの差異として表出するという点で、経営問題として医療保険コスト、ひいては従業員の健康問題を放置することができなくなったのである。加えて、米国の採用市場における学生達の企業選好においても医療保険と年金保険(主に401k型の確定拠出年金)の導入とその内容が注視されることも「医療保険」とその前提となる従業員の健康管理に企業が踏み込んだコミットメントをせざるを得ない背景となっていた。

 一方、わが国では社会保障制度を前提とした国民皆保険制度の下で、企業負担(法定福利費)は強制負担ではあるが、間接的に算定されて発生するために直接的に自社の従業員だけの健康に関与する動機が希薄となった。もちろん、大企業や産業単位で健康保険組合が設立されている場合には、保険料率を軽減するチャンスはある訳だが、高齢者医療への拠出の増大過程で財政悪化が進むなかでは予防事業へのインセンティブが希薄化されたものと考えられる。

 いずれにしても、「健康経営」を唱えた米国と比べると立ち遅れた感の否めない「健康経営」ではあったが、近年になって日本企業の従業員の心身両面での健康に対する関心が出遅れを取り戻すような、大きな高まりを見せ始めている。

 その契機とひとつと考えられるのは市場や政府からの働きかけであろう。
 新しいところから挙げると、昨年度、日本再興戦略に位置づけられた「国民の健康寿命の延伸」に対する取り組みとして、経済産業省は、「日本再興戦略」の一環として、東京証券取引所と共同で「健康経営銘柄」22社を初めて選定し、公表した。この「健康経営銘柄」とは、「健康」への取り組みによって長期的な視点からの企業価値の向上を重視する、投資家にとって魅力ある企業を顕彰しようという主旨であり、彼らの理解と評価を得ることで株価の維持・向上に寄与することが期待されている。30ページ近い調査アンケートに回答せねばならないなど、面倒な対応が求められるが、何かと株価が気になる近年の経営層の目を引くには効果的な顕彰制度であろう。


経済産業省Webより


 また、これに先駆けて平成23年には日本政策投資銀行が「DBJ健康経営格付」を開始している。従業員の健康への配慮の取り組み度合いに応じて有利な融資金利を設定するという対応を始めた。こちらは、特別金利Ⅰ、Ⅱという優遇金利による融資やシンジケートローン組成を提供するという点では、より企業にとっては実利的効果が得られる機会となっている。近年のDBJから発表の一覧をみると、「〇〇業界初」「〇〇県初」といった、心憎い表現が必ず付け加えられており、近年、注目される企業ブランディングに腐心する担当者や経営者にとっては大いに気になる刺激策となっているのではないだろうか。


日本政策投資銀行Webより


図表1 健康格付けに基づく融資等の実施ケース一覧

「日本政策投資銀行」HPより作成


 こうしたある種の刺激策が奏功した面もあるが、もうひとつのより根源的な契機は、現実問題として、従業員の健康状態が企業経営の成否と因果関係をもつことが、職場で、そして経営層においても実感され始めたからであろう。メンタルヘルス不全の拡がり、過労死、過労自殺といった悲惨な事態の発生など、自社の貴重な人材を毀損し、喪失するリスクを、対処すべき経営問題として取り上げる企業が増えてきていることは間違いない。これら先進的な取り組みを始めた企業が顕著な経営的効果をあげることで、さらなる拡がりをもたらすことが期待される。



2.福利厚生からみた健康経営への取り組み

 では、こうした様々な動きがあるなかで、わが国の企業は「健康経営」にどのような対応をしようとしているのであろうか。その対応の一面を、法定外福利厚生費の動きからみたものが図表2である。

 日本経団連が、毎年実施している「福利厚生費調査」の文類項目のなかに「健康」と関連するものとしては概ね三項目がある。まずは「ヘルスケアサポート」がある。これは、診療・治療費補助、人間ドック補助、健康相談など多様な費用が含まれる項目である。

 次に「医療・保健衛生施設運営」という項目があり、これは主に医務室等の施設経費などの施設設置、維持に関連する費用となる。さらにもう一項目をあげるとすれば、「文化・体育・レクレーション活動補助」も健康関連項目としてあげられるだろう。現在のレク施策の多くは単なるアメニティの提供というものではなく、活発な運動の推進によるメタボ予防、生活習慣病の予防といった目的意識も強く、また様々なイベント施策のなかにも、コミュニケーションの活性化を通じた従業員のストレスの解消、軽減、ひいてはメンタルヘルスの予防を狙ったものが少なくない。この分野には「文化・体育・レクレーション施設運営」という類似の項目があるが、この費目が減少を続けるなかで、活動補助だけが伸びている点からも、メンタル、フィジカル双方での「健康」施策としての位置づけが強まっていると考えられる。

 バブル期終焉時期の1997年度頃からの三項目の推移をみると、「ヘルスケアサポート」は、ほぼ一貫して伸びてきており、企業の従業員の「健康」への関心の高まりを如実に表している。「医療・保健衛生施設運営」については、この間の値の振幅はみらるものの、この測定期間内では高い水準に達している。一方、「文化・体育・レクレーション活動補助」は、不況期で低迷していた時期からは明らかにリバウンドを見せて上昇基調にあることがわかる。

図表2 法定外福利厚生費での時系列変化
(1997年を100とする指標値)

「福利厚生費調査」(日本経団連)より作成



 この法定外福利厚生費内での各項目の全体を同様の二時点で比較したものが図表3である。1997年度と2013年度(2014年3月期)の二時点比較での変化額と変化率をグラフ化して併置している。

 実額(従業員1人当たり月額平均支出)では、この間に法定外福利厚生費が全体的に大きく縮小していることがわかる(-3,925円)。また、その減少額の内容が「住宅(-2,527円)」「持ち家補助(-379円)」「給食(-915円)」「文・体・レク施設・運営(-786円)」などの「ハコもの(施設附帯型施策)」であることも示している。

 このような法定外福利費としての縮小基調が鮮明であった時期にもかかわらず、上記のとおり「健康」関連項目はいずれも目立って増加している。「ヘルスケアサポート」が実額で337円、増加率59.2%、「医療・保健衛生施設運営」が同じく、535円、35.2%、「文化・体育・レクレーション活動補助」が189円、20.5%といった実態である。

 全体的にみると、長く続いた景気後退期にあって、法定外福利費は「ハコもの」を中心に廃止・縮小を余儀なくされたわけだが、そうした厳しい環境下にあっても「健康」施策への支出、つまり健康投資は着実に確保されてきたということになる。


図表3 法定外福利厚生費 項目別変化(実額と変化率)

「福利厚生費調査」日本経団連より作成


・膨らむ「健康」へのもうひとつの企業負担
 「健康」に関する企業負担は、任意の制度展開が許される法定外福利厚生費だけはない。もう一方に「健康・介護保険」での事業主の保険料負担がある。いわゆる「法定福利費」である。

 この負担は法定外福利における「健康」施策での負担とは桁違いに重いものであると同時に、企業の経営判断とは無関係に負担が義務づけられるものである。

 この企業の保険料負担の近年の動きを、法定外福利費全体と対比させてみたものが図表4である。まさに一目瞭然だが、法定負担としての「健康・介護保険」は、一貫して大きく上昇しつづけており、2010年度には、法定外福利費全体を超えてしまっている。

 先の「健康」関連の三項目は法定外福利費全体の15.4%程度であり、実額で3,854円である。法定福利費である「健康・介護保険」は、その7.7倍という大きな支出であり、負担となる。

図表4 法定福利費としての負担



3.未だ十分な効果のみえない健康投資

 このようにみてくると「健康」に関するわが国企業の関与は、法定外福利費という任意の制度・施策のなかに徐々に比重を高めると同時に、法定福利費という義務的な公的保険制度のなかで、否応なく大きな関与、負担を求められ、そして応じてきたことになる。

 では、このようにわが国企業も従業員の「健康」への関心を高め、福利厚生制度を通じても健康維持に投資的な分配を高め、さらに医療保険制度の持続性への貢献という文脈のなかで関与を高めてきたわけだが、実際の問題として、最終的な目的となる従業員の「健康」という点での、実質的な効果を得ることができたのだろうか。

 「健康」への投資の成果に関する効果指標のひとつとして、従業員の健康状態の早期警戒情報に着目してみた。

 図表5は、厚生労働省が年毎に発表している「定期健康診断結果」における有所見比率の全国レベルでの推移である。

 この有所見比率とは、労働安全衛生法に基づいて事業者に義務づけられる定期健康診断の受診者を分母にして、そのなかで健康状態において何らかの異常値が観測された受診者を分子として算出される比率である。いわゆる「検査にひっかかる」という状態となった受診した従業員の比率となる。

 まずは、受診者ベースでの有所見比率の推移をみると、平成2年以降、直近の平成26年度まで一度も下落することなく、継続して上昇する傾向が続いており、最新時点では53.2%と半数以上の受診者が「異常あり」と所見される状態にまで達している。

 またこの図表で示しているが、各検査項目で個々の有所見率を単純合計した値をみると、平成20年以降100%を超えており、最新時点で103.4%となっている。受診者ベースの有所見率と併せて考えてみると、1人の受診者が2つ程度の異常値を所見されたという解釈となる。


図表5 定期健康診断実施結果(H2-26 年次別)

常時50人以上の労働者を使用する事業者
*検査項目単純計では、時系列変化を正確にみるために
平成11年度より追加された「血糖検査」は除いて集計したものが「11検査項目 単純計」である

厚生労働省 発表資料より作成



 この間には、検査機器の技術的発達や高齢化に伴う受診者平均年齢の上昇、検査内容の変更、受診率の向上、実施事業場数の増加等々、所見率を自然上昇させる背景的な要素はいくつか考えられる。しかし、やはり最も重要な基本的解釈は、「健康異常」とされる従業員が減ることなく、増え続けているという傾向であり、半数以上の層で異常値が観測されている実態であろう。

 しかも、この統計値にはうつ病等の精神疾患関連が検査項目としては設定されていないという点を勘案すれば、さらに、メンタルを含めた健康異常、健康阻害状態の従業員が確実に増えつづけてきた、と結論づけられるのではないだろうか。


 さて、この有所見率の実態とその推移から判断すると、わが国の企業全体として「健康経営」が実現されたとはいいがたい、という結論になる。法定・法定外福利費として、従業員の健康に投資されたリターンが決して満足できるものではないのである。

 もちろん、個々の先進的企業においては、実質的な成果、経営的効果を得ていることは間違いなく、筆者も多くの実例を承知している。こうした一部の先進企業での努力や成果が、わが国の企業社会全体にまでは到達しておらず、総体としては従業員の健康悪化を抑止できていないということになろう。

 どのようにして実効性をもった健康施策を開発、選定し、それに効果的に投資すべきか。また、より多くの企業層にそうした動きを広めていけばよいのか。福利厚生の新たな存在意義を問われる大きな課題となっているといえよう。